荒れ野を超えて

マタイによる福音書4章1~13節

聖書を見ていくと、時代時代で礼拝の在り方が変化していることが分かります。信仰の父と言われたアブラハムの時代には、アブラハムは行く先々で祭壇を築いて礼拝をし、主の名を呼びました。モーセの時代には、シナイ山で十戒と律法を受け取り、その後は幕屋を設置してそこで定められた犠牲をささげて礼拝がなされました。ただ、荒れ野の旅路の行く先々でそれは設置されました。ダビデ王以降の時代になるとエルサレムに神殿が建設されて、そこで礼拝がなされて犠牲がささげられました。しかし、バビロン捕囚時代は、エルサレム神殿は破壊され、遠くバビロンに強制連行されて移住させられました。そこでは、集まり、律法の書が読まれるという形の礼拝に変わりました。犠牲をささげる礼拝スタイルから、神の言葉を聞く礼拝スタイルに変わったのです。時代時代で礼拝スタイルが変わり、どこで礼拝するかも変わりましたが、主なる神を礼拝するということでは、共通していました。

イエス様が、荒れ野で誘惑受けた場面なのですが、その背景にあって問われていることは、真の礼拝とは何かということです。第1の誘惑では、悪魔は「神の子なら、石をパンに変えてみよ」と言います。様々な奇跡をなされたイエス様にとって簡単なことですが、「人はパンのみに生きるにあらず、神の口から出る言葉により生きる」と答えます。イエス様は、偉大な力を持っていたけども、それを何のために用いるのか、それは神の御心を行うことであることを示されたのです。第2の誘惑は、「ここから飛び降りたらどうだ、天使が助けてくれる」というのです。きっとイエス様を神様は守って下さるでしょう、しかしイエス様は、「神を試してはならない」と答えます。神様を自分の御用聞きのように用いようとすることを戒められたのです。第3の誘惑は、わたしを拝むならこれらのものを与えようと言います。悪魔が様々なものを使った私達を、神様から引き離そうとする事がよく分かります。