弟子を選び、弟子を遣わす

マタイによる福音書10章1~15節

この箇所は、イエス様が12人の弟子を選ばれた場面です。弟子として訓練して、イエス様の地上の働きを託するために選ばれています。そのために3年間行動を共にされたのでしょう。それでも期間が短くも思えますが、不充分と思えても、イエス様は用いられたのです。また、その後の歩みの中で、鍛えられ、整えられたのです。私たちも、拙いとか、不充分だとか、能力が無いというのではなく、拙い私を通して神様が福音を届けて下さると心に留めたいと思います。

イエス様から遣わされた弟子たちは、神の国の福音を宣べ伝え、病人を癒し、悪霊を追い出したとあります。現代の私たちが、癒しや悪霊の追い出しを出来る者ではありません。ただ、その背後にある、その人たちの伊丹、悲しみ、苦しみを受け留めて、救いをもたらすものとなることを願います。イエス様のもとに集まった群衆を見て、イエス様は深く憐れまれて、同情されます。彼らは日々の生活の中で苦しみ、病いや問題を抱えていました。今から2千年前は格差社会でした。持てる者と持たざる者とで大きな差がありました。持たざる者は、今日の食の糧をどうしたらいいのだろうかと途方に暮れるような状況でした。その人々のことを深く憐れまれて、弟子たちを遣わしもされたのです。

弟子たちに「失われた羊」のところへ行きなさい、と言われます。失われた羊とは、神様を一度信じたけれども離れてしまって、弱り果てている人たちのもとにいって、再び立ち返らせることを願われているのです。日常の様々なことに目を奪われて、心奪われてしまい、神様との本来的な関係から離れてしまって、不安定になった人たちに目を向けておられるのです。かつては神様に依り頼んでいたけども、今は別のものを頼りとし支えとしようとするのですが、それは一時的であり、下手に寄り掛かると大きく転んでしまうことさえあるからです。イエス様の声を聞き分けて、従っていくことの大切さを教えています。