何を見たのか
マタイによる福音書11章2~19節
バプテスマのヨハネは、ガリラヤ地方とペレア地方(ヨルダン川の東岸)の領主であったヘロデ・アグリッパによって牢屋に入れられたのですが、弟子たちをイエス様の許に遣わして、「来るべき方は、あなたでしょうか?」と、尋ねさせています。バプテスマのヨハネも、「メシア(救い主)待望」を持っていました。恐らくは、預言者エリヤのような救い主が来られると期待していたのではないでしょうか。
イエス様は、バプテスマのヨハネの弟子たちに、「見聞きしたことを伝えなさい」と言われます。そして、「目の不自由な人は見え、足が不自由な人は歩き、重い皮膚病を患った人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り」と言われます。つまり、失われたものが回復することが語られています。その続きに、「貧しい人は、福音を告げられている」と続くのですが、それまでの流れ通りなら、貧しい人は財産が与えられる、と期待するのですが、違います。ここで言われる「貧しい人」というのは、経済的に貧しい人ではなく、多くのものを失った人を指しています。つまり、ユダヤ人たちは、まさに多くのものを失い、苦渋を味わっています。そのユダヤ人たちに、福音(良き知らせ)がもたらされることがここでのメッセージだったのです。
ここで考えさせられるのは、私たちは、失われた者という自覚を持っているでしょうか。自己充足してしまっているならば、イエス様がいなくても大丈夫、イエス様を抜きにした生活ができてしまうということになるのです。その代表例が、律法学者やファリサイ派であり、祭司長たちでした。自分達の行いに満足していたから、イエス様の言葉に耳を傾けず、反発をしたのです。私たちは、失われた者である、神様との関係を失っていたけども、イエス様を通して、神様との関係の回復をさせて頂いているのです。その豊かな恵みに与っているのです。日常の生活において、神様の言葉に耳を傾け、感謝をささげ、祈りつつ歩みましょう。